ぴちゃぴちゃと、濡れた音が真下から聞こえる。 子犬が無心に皿のミルクを舐めるような、熱心で絶え間無い音。 それに呼応するかのように、立てた膝が、もう何度目か分からないけれど、力無く崩れようとする。それを、ベッドのヘッドボードにしがみ付く両腕が、必死に、かろうじて支えている状態だ。 耳奥に妙に大きく響くその粘着質な音が、固く閉ざされた明日叶の奥底を、少しずつ溶かしては解いてゆく。 ――――凄絶な羞恥心と共に。 “その事実”が気になり始めたのは、付き合い始めてしばらく経ってからだった。 想いを遂げ、初めて互いに肌を重ねてから約1ヶ月。 それまでも、授業時間以外の大部分を共にしていたが、晴れて“恋人”という立場を自覚してからというもの、明日叶は1日のほとんどを太陽と過ごすようになっていた。 本当に、朝起きてから夜眠るまで。 ―――いや、正確には、夜眠る時、朝目覚める時も一緒に。 不思議なくらい、違和感がなかった。 人と付き合うことが、こんなにも苦手だった自分が。 四六時中、他人のそばにいられるなんて。それも、深い安心感を以て。 これが―――気恥ずかしいけれど「愛」というものであるならば、昔から偉人たちがこぞって「愛は偉大である」と声高に主張していた意味が、今なら分かる気がする。 柄にもなく、そんな風に感傷に浸ってしまう。 太陽の素直で誠実な愛情は、彼の持つ若々しさとあいまって、明日叶の身体にとても甘美に、けれど強く激しく刻み込まれた。 何もかもが初めての経験で、どうしても戸惑いや恐怖が先に立つ明日叶を、この年下の恋人は根気よく宥めてはあやし、普段のおおらかでどこか粗雑な印象からは想像の出来ないほど優しく、明日叶の全てを開いていった。 何度身体を重ねても、途端に物欲しげに染まりだす肌や、まるで己のものとも思えない甘く濡れた高い声、穿たれる熱を離すまいとする、自分でも末恐ろしいほど制御しがたい欲望を曝け出す恥ずかしさには、いつまでたっても慣れることが出来ずにいる。 けれど、初めて得た「自分を求めてくれる存在」の愛しさに、戸惑いながらも明日叶は必死に手を伸ばし、言葉にならない声で応えていた。 ―――つもりでいた、のだ。 気づいたのは、本当に唐突だった。自分でも、何がきっかけだったか、覚えていない。 ただ、明日叶自身が気づいていなかっただけで。 もっとずっと、早くに気づいているべきだったのかもしれない。 「ねぇセンパイ、オレのこと、好き?」 明日叶を抱くたびに、太陽は尋ねた。 好きだよと、絶え絶えの息のもと、明日叶も聞かれるたびに返した。 そのたびにほっとした表情を見せる太陽は、けれど一回のセックスの中で、何度も何度も、執拗なまでにそう問い続けた。 ただの睦言だと言ってしまえば、それまでかもしれない。 けれどその声が、甘さや熱を含んでいるというよりも、どこか頼りなげに揺れているような気がして。 そう思い当たったとき、ようやく明日叶は、太陽とちゃんと向き合わなくてはいけないと思った。 「太陽」 「……ん……?」 くったりとベッドに身体を沈み込ませる明日叶の背を、前から抱きしめるように撫でる太陽に、思い切って声を掛けた。 どうしたの、と、優しく揺れる瞳が促してくる。 ただの先輩後輩だったときには知りようのなかったことだが、太陽はこういう時、途方も無く穏やかで優しい目で明日叶を見詰める。びっくりするほど、大人びた表情で。 少し息が整うのを待って、つと顔を上げて視線を合わせた。 明日叶の言葉を、太陽はじっと待っている。 「俺、」 「?うん」 「俺は、お前が好きだよ、太陽」 しっかりと、揺ぎ無く伝えようと思ったのに。情事の余韻が、語尾を軽く震わせてしまった。 突然の告白に、さすがの太陽も目をしばたく。 「どしたの、急に」 一瞬の驚きののち、楽しそうな声音が明日叶をからかう。 けれどそんな揶揄に乗ることもなく、明日叶は真顔で続けた。 「俺、なにかお前を不安にさせること、したか?したなら、ごめん。ほんとに謝るから…っ」 思わずその肩にすがりつくような形になって、明日叶ははっと手を離した。 「ほんとに、どうしたのセンパイ」 慌てたように、太陽が覗き込んでくる。 その視線をしっかり受け止めて、明日叶は大きく息を吸うと、思い切って言った。 「俺の何がお前を不安にさせてる?言ってくれないか、俺はどうしたら」 お前を安心させてやれる? 最後は、消え入るように呟いた。 言葉にすると、ますます気持ちが塞ぐ。 しばらく黙ったままだった太陽が、小さく嘆息した。 同時に、回された腕に力が入って、抱きしめられる形になる。 「なんで?」 静かに尋ねられた。 「なんで、そんなふうに思ったの?」 言葉は疑問符の形をとっているが、否定もされないことに、明日叶は確信を強めた。 そうだ、自分はこの優しい人を、不安にさせていたのだと。 理由は、―――情けないことに、正直皆目検討がつかないが。 「………何度も、聞くから」 腕の中で、そっと答えた。 「俺がどんなに『好きだ』って言っても。何度も何度も、確かめるように聞く、から」 こんなにも、好きなのに。 気持ちを疑われているとは思わない。けど。 「俺はまだ、お前にちゃんと伝えきれてないか?確かに、お前みたいに気持ちを言葉にするのは苦手だ、けど…、それでも、」 「分かってる」 遮るように、太陽の言葉が割って入る。 その、思いもよらない鋭い声音に、明日叶は思わず言葉を止めた。 けれどすぐに、そんな昂ぶりを反省するように、額に唇が触れる。 「……ごめんね、センパイ。分かってる、分かってるんだ……」 まるで自分に言い聞かせるように、何度も囁く。 「ねぇセンパイ。センパイが誤魔化さずに聞いてくれたから、俺もぶっちゃけていい?」 ちょっとだけおどけたように、太陽が笑った。 引き攣るような口元が、妙に痛々しい。 「なんでも。ちゃんと聞く」 そうしっかりと頷くと、太陽はようやくぽつりぽつりと話し出した。 「センパイ、ね……あ、本当に、センパイの気持ちを疑ったりとかは、してないからね。それだけは信じてほしいんスけど……」 「分かったから」 先を促すと、太陽は目を伏せて微笑んだ。 「センパイのこと、オレ、本気で好きっス。一緒にいると、なんかこう、うわー!って、どうしよう大好きだー!って、自分でもびっくりするほど思っちゃう。えっちなことすると、もっと」 太陽らしいストレートな言い方に、頬を染めながらも明日叶は肯く。 「でも、ね……時々、ほんと時々、なんだけど。オレの一方的な想いで、明日叶センパイ、無理させちまってんじゃねーのかな、って。センパイもオレのこと、ちゃんと好きでいてくれてるって、分かってるつもり、なんだけど……それでも、オレの『好き』の方がずっと重くて乱暴で……センパイを傷付けてるんじゃないかって、……時々、スゲー不安になる」 すい、と指先が鎖骨の辺りを撫でた。もう慣れた感触に、身体が敏感に反応する。 そんな明日叶に、太陽は眉を顰めて苦笑してみせた。 「こうなると自分でもコントロール利かねーし」 ごめん、と小さく謝られて、そこに鮮やかな花が咲いているのだろうことが分かった。 そんなの。 「謝る必要、ない…だろ」 残された色も、噛まれた時の痛みも、すべて「求められた」証だ。 「俺、一度でも嫌だって言ったか?言葉は……ごめん、確かにお前に比べれば足りないかもしれないけど、俺はお前を拒んだ覚えは、一度もない」 きっぱりと、少しの非難を込めて言い切った。 好きじゃなかったら、本気で愛してなかったら、身体なんて許せない。 生理学的に無茶な方法で、それでも相手が太陽だから、受け入れたのに。 太陽の不安が、形を変えて明日叶の心を抉る。 「あぁぁ、だから!別にセンパイの気持ちを疑ってるとか、そんなんじゃないんだってば!」 泣きそうな顔で、太陽が首を振る。 「オレが勝手にビビってるだけ。優しくしたいって思ってるのに、出来てない自分が分かってるから。自業自得なの。もっと、思う通りにセンパイに接せればいいのに…っ」 もっと優しく、もっと余裕を持って。 無理させないよう、気持ちよさだけを味わわせることが出来るように。 だって、本当に大好きだから。 そう、そっと吐露した太陽に、明日叶は身体の芯から、これまで感じたことのないような気持ちが溢れ出すのを感じた。 力の入らない腕で、けれどめいっぱい、太陽の身体を抱きしめ返す。 「明日叶センパイ……?」 「太陽。オレは、どうしたらお前の不安を消してやれる?どうしたら俺の気持ち、分かってもらえる?教えてくれないか。俺はきっと………お前になら、何でもしてやれる」 普段なら憎らしいほど下手くそな言葉しか紡がない唇が、驚くほど素直な気持ちを零す。 それに安堵こそすれ、恥ずかしいなどとは微塵も思わなかった。 そんな自分が、今は誇らしい。 「センパイ、オレ、明日叶センパイがそう言ってくれるだけで十分」 「俺が嫌なんだ!」 宥めるような太陽の言葉を、今度は明日叶が切り捨てる。 お前が俺に刻んでくれるような確かな恋情を、俺だってお前に感じてほしい。 どうしたら信じてもらえる。 どんな俺を見せたら、信じてくれる。 明日叶を抱きしめたまま無言だった太陽が、真面目な声で念を押す。 「そんなこと言ったら、オレ、本当にお願いしちゃうよ?」 「いい。それでお前に信じてもらえるなら。一方通行なんかじゃないって、お前に証明出来るなら」 迷いは、無い。少しの恐怖は……否定できないが。 のそり、と太陽が身体を起こす。 つられて起き上がった明日叶を引き寄せ、長い、長いキスをする。 「………っん……」 何度も何度も角度を変えて啄ばんで、ようやく解放したかと思うと、たった数センチの距離で太陽がひっそりと微笑んだ。 「一度だけ。一度だけでいいから。センパイが、何よりも恥ずかしいって思う姿を、オレに見せてほしい」 言葉の過激さが、その声の柔らかさに中和される。卑猥な内容のはずなのに、不思議なくらいその要求はストンと明日叶の胸に落ちてきた。 「泣いちゃうくらい。センパイが、もうダメだって、もう嫌だって泣いちゃうくらい。それくらい恥ずかしいカッコをオレに、―――オレだけに、見せて」 いつものセックスですら、頭が沸騰しそうなくらい恥ずかしいというのに。 誰にも、決して見せることのない姿を。 限界すれすれの、あられもない、みっともない姿を。 全てを取り去った、裸の自分を。 誰よりも愛する者の目の前で、晒せという。 一瞬押し黙った明日叶に、太陽が苦笑する。 羞恥心の人一倍強い明日叶には無茶すぎる願いだったかと、冗談に濁して撤回しようとした瞬間。 「わかった」 意外なほど力強い声で、躊躇い無く、明日叶は答えた。 「どうすればいい……」 心細げでありながら、まるで先ほどのキスの続きを強請るような、煽るようなひたむきな問いかけに。 一度だけ背筋を震わせた太陽は、そっと明日叶の耳元に口を寄せた。 |
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◆あとがき◆ まさかの前後編仕立てです(笑) このまま続けたら、恐ろしく長い話になっちゃったので(^-^;) あとがきは後編にまとめて。 2010.9.15 up |
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