ぽかぽかと穏やかな日差しが、窓辺のテーブルを温める。 細く開けられた上方の小窓からは、時折暖かな風が吹き抜け、この部屋独特の古めかしく乾いた匂いを掻き交ぜていた。 室内には他に5、6名といったところだろうか。 いや、ここからは見えない書棚の裏に、あと数名程はいるのかもしれない。 試験週間中ならばともかく、普段の、しかも土曜午前の授業が終わった直後に図書室へ直行する人間は、さほど多くないらしい。 一教育機関に併設される施設としては広大すぎると、最初は驚き半分呆れ半分で感心したものだが、今では明日叶にとってここはお気に入りの場所の一つでもあった。 整然と並ぶ書棚を取り囲むように―――おそらく利用者の集中力を欠かせないよう最大限配慮したものだとは思うが―――複雑に入り組んだ迷路のような通路と、その脇にひっそりとランダムに配置された小テーブルと椅子は、生徒たちにとって絶好の勉強場所になっている。 脈絡無く、てんでバラバラの場所に置かれた椅子は、それでも総じて窓に背を向ける形で設置されていた。 これはきっと、背後から手元を覗きこまれる煩わしさを気遣ってのことだろう。 また、試しにどこかの席に着いて視線を巡らせてみると、壁の凹凸や、互い違いに置かれた背の高い書棚の絶妙な角度のせいで、巧妙に視界が遮られることが分かる。 近くで人の気配はするが、それこそ相手が目の前に立つまでこちらの姿が見られることはない。 広いこの室内にいながら、ささやかではあるが自分一人のスペースを確保出来るようなこの構造が、利用者の人気の一因だろう。 そして今。 春の陽気明るく、心地良い静けさに包まれたその空間の一角で、実に学生らしく、参考書とにらめっこしている二人がいた。 ―――正確には、『にらめっこしている“ような”一人』と、『その様子を隣で見守る一人』だ。 傍から見れば、仲の良い友人同士が空き時間を利用して、勉強を教え合っているようにも見える。 ただ一つ、教えられる側の人間が、この穏やかな雰囲気にそぐわぬ苦痛に歪んだ表情で、額に軽い汗を浮かばせているという事実を除いては。 「Che peccato!ほーら、そこ。また同じミスしてるぜ?」 シャープペンの裏で数式のとある個所をコツコツ示すと、ディオは苦笑交じりに言った。 一心にペンを動かしていた明日叶が、驚いたように顔を上げる。 「え?だって、この場合はこの公式を」 「なら、そのまま解いてみろよ。ほら」 決して得意ではない科目だが、数時間前からひたすら基本問題を解かされ続けたおかげで、ようやく飲み込めてきた単元だ。 先程までよりほんの少し難易度の上がった応用問題とはいえ、多少は自信を持って取り組みかけた課題だっただけに、明日叶もおずおずと異を唱えてはみたものの、それを軽くいなしたディオに促されるまま、とりあえずは自分の思う通りに解を求め続けてみて―――しばらくして気付いた。 「……あ」 「分かったか?それ、引っ掛けなんだよ。ぱっと見、綺麗に基本定理が当てはまるように見えるんだけどな。出題者の思惑通りバカ素直に進めていくと、ラストでおかしなことになるって寸法だ。…で、結局はお前がさっき初歩的な問題で躓いたのと、同じ間違いに陥るってわけ」 ここまで来れば、明日叶にも分かる。 つい一瞬前まで小気味いいほどスラスラと解き進められていた証明問題が、いつの間にか、どうにも続けられなくなっている。 大きな失敗をしたつもりは無いが、だからといってこの先、知り得る限りの手法を用いようにもさっぱり適応せず、下手をすると何度も何度も同じ数式をループさせる羽目になりそうな、無残なゲームオーバーっぷりだ。 つまりは、取っ掛かりの段階から間違えていたということらしい。 それまでいっそ快調なほどだったのに、気付けば少しずつ何かがズレている。 そして、もうどうにも打つ手がなくなったその時に、ようやく自分の掛かった罠の正体が見えてくる感覚。 それは、時折亮一を相手にチェス盤を囲んだ時に感じる敗北感によく似ていた。 自分を追い詰めた罠は、分かってしまえば案外シンプルなものだったりする。 それが尚更悔しくて、明日叶は唇を噛んだ。 「ま、噛み合わなくなるのが最後の最後ってとこが、ヤらしいよな」 そう言って小さく舌打ちしながらも、いわゆる“バカ素直”に引っ掛かった自分とは違って最初からその罠に気付き、今もすらすらと違う切り口から解法を説明してくれるディオに、明日叶は素直な賛辞を送った。 「……すごいな、ディオは」 「何を今さら」 当然と言わんばかりの返答も、ちっとも嫌味に聞こえない。 本当に自信のある人間は、それを誇示することも謙遜することもしないのだ。 「俺の場合はたまたまこれが得意なだけだ。俺だって、英語に関して言えばお前にゃ到底勝てねーよ」 「でも」 それでも、いくら苦手科目だからとはいえ授業自体についていけず、こうして試験前でもないのに教えを乞うている自分に比べ、ディオは得意な数学以外の科目でも、難なく平均以上の点数を取っている。 少なくとも自分は、たった一教科で優位に立てたからと得意げになれるような、おめでたい人間ではない。 それでなくとも、この友人兼恋人には学業だけでなく、負けていることの方がずっと多いというのに。 どことなく肩を落とした明日叶に苦笑すると、ディオはふと真顔になって言った。 「そうだな……明日叶、お前に足りないのは、気概かも知れねーな」 「気概?」 集中力とか応用力とか、そういうのとは違って、数学の問題にはあまり関係のなさそうな単語が飛び出して、明日叶は思わず鸚鵡返しに繰り返した。 「ああ。お前には、問題に対して『なんとしてでも攻略してやるぜ』って攻め気な姿勢が足りねーんだよ。『手強い相手ほど燃える』って感覚とも言えるか」 「攻略……」 目から鱗な指摘をされて考え込む。 確かに、目の前の問いについて、「頑張って解こう」とは思っていたが、「どう攻略してやろうか」と好戦的に考えたことはなかったかもしれない。 「Appunt.一所懸命やるのと、攻めの姿勢で臨むとのはちょっと違うぜ?オレとしては、お前の健気なトコは愛らしくて好みなんだが、もう少し自分からガッついてもいいんじゃねーか?ガッティーノ」 言いながら、長い指がからかうように明日叶の首筋を撫で上げる。 暗に言葉の裏に示された異なる意味合いに気付き、カッと頬が熱くなった。 「……っ、ディオ!」 「集中力も勤勉さも、文句ねーだろお前。あとは、『絶対に解いてやる』『負けてたまるか』って気持ちの問題だぜ、多分な。ミッションに関することなら、いっそ誰よりも負けず嫌いのくせに」 「だって、あれは下手すれば命が懸かってるし……別に、試験問題を間違えたからって怪我するわけじゃ……」 「それは甘えだろ」 揶揄された恥ずかしさを誤魔化すために口をついただけとは言え、まったくもって情けない言い訳を遠慮無くばっさりと切り捨てられて、余計にいたたまれなくなる。 まったくもってその通りだからだ。 売り言葉に買い言葉とは言え、下らないことを言ったものだと自己嫌悪に陥る。 「まあ、こういうのは性格もあるしな。ガツガツ攻める姿勢ってのもあって悪いもんでもないが、あんまり気にするなよ」 甘いマスクにそぐわず、実は誰よりもリアリストで厳しいが、同時に誰よりも明日叶自身のことを理解してくれているこの男は、些細な明日叶の失言も真に受けることなく流してくれる。 それが決して本音ではないと信じてくれているからだ。 そんな彼に甘えっぱなしな自分が情けなくて、明日叶は顔を上げた。 「お前の言う通りかもしれない。俺に欠けてるものは、気合いなのかも。もっと『間違えたら後がない』ってくらいの気迫で臨むようにする。ミッションみたいに」 生真面目にそう宣言する明日叶に、なぜかディオは一瞬の後、ニヤリと笑った。 ―――なんだか、とても良くない笑みだ。 これまでの付き合いで、彼のこういう笑い方が実害をもたらさなかったことなど一度もないので、思わず明日叶も身構える。 そんな様子を気にすることもなく、ディオは何かを思案する風に宙を見ている。 「なるほどな……何か、絶対にミス出来ないような瀬戸際に立てればいいわけか」 「ディ、ディオ?」 なんだ?今度は何を思いついたんだ!? じり、と本能的に椅子の上で距離を取ろうとする明日叶の腰を軽く抱きとめて、ディオが身体を近付けてくる。 「なぁ明日叶」 「な、なんだよ」 せめて気押されないようにと、あえてぶっきらぼうに答えてみる。 ―――まぁ、すでにどもっている段階で負けは見えているのだが。 下から覗き込むようにして明日叶の視線を捉えるその瞳は、『勉強を教えてあげている親切な友人』の皮などとっくに脱ぎ棄て、活き活きと妖しく輝いている。 見覚えのありすぎる色に、明日叶の鼓動が跳ね始める。 こんな真昼間に、こんな公共の場で。 そんな非難が通用するような相手じゃないのは、痛いくらい分かっているけれど。 「ミスには罰が鉄則、だろ?」 甘ったるい声が、わざとらしいくらいの生温かな吐息と共に、耳元に吹き込まれた。 いつの間にか、太腿が密着するほど間合いを詰められてしまっている。 その上がっしりと片手で腰を拘束されているので、立ち上がることすら出来ない。 「決めたぜ、ガッティーノ。お前が一つ間違えるたびに、俺がお仕置きしてやるよ。それが嫌なら、せいぜい正答率を上げるんだな」 「えっ、なっ……!」 そう言いながらもう片方の手で問題集のページをめくると、応用問題が10問並んだ部分を顎で示す。 「さ、スタートだ。……っと、その前に」 「……うわ…っ!ちょ、何する……!」 「騒ぐな」 「やめっ…!」 がっちりと腰を抑え込んでいた手が、器用に動いて金属音を立てる。 慌てて邪魔しようとする明日叶の両手を、口笛でも吹きそうな軽さで払いのけると、素早くジッパーを下ろした。そのまま、骨太な指が中へと侵入してくる。 「まずはさっきのミスの罰だ。嫌なら次は間違えんなよ?」 「………っぅ………っ」 下着越しに、敏感な部分を指先でくすぐられて、思わず呻くような声が漏れた。 くすりと、楽しくて仕方がないといった風の笑い声がすぐ側で聞こえる。 「お前、どんだけ感じやすいんだよ。もうこんな」 「言うなっ…!」 言われなくても分かっている。 ことディオに対しては、呆れるくらいガードの緩くなってしまっている自分を自覚しているから、頼むから改めて言わないでほしい。 羞恥と悔しさで滲む目尻を、肉厚の舌が抜かりなく舐め取っていく。 「俺としては、頻繁に間違ってくれた方が、教え甲斐あるんだが」 「……ふ、ぁ……っ…」 軽い刺激と蕩ける声音に、早くも勃ち上がりかけたそれを、大きな手のひらが強引に包み込む。 咄嗟に上げかけた嬌声を、今自分の置かれている状況を何とか思い出すことで必死に飲み込んだ。 「そうそう。あんまり大きな声出すと、他のヤツに聞こえちまうからな」 ボリュームを抑えた分、艶を増した美声が甘やかな釘を刺す。 何度も確認するが、ここは真昼間の図書室なのだ。 構造上、中央に向かって高く拓けた天井は、時として椅子の軋む音すら拾い上げてしまう。 何よりも、いくら落ち着いて集中できる空間とはいえ、当然だが密室ではない。 いつ誰が傍に来て、テーブルの下で繰り広げられている痴態に気付かれるともしれないのである。―――それなのに。 抗えないのは、巧みすぎるディオの愛撫のせいか、それとも。 「ん。1回目はこんなトコか。じゃあほら、続きやれよ」 短い時間で、けれど的確に明日叶の身体に火をつけるのに長けた指が、いともあっさりと離れていく。 小さく乱した息を必死で整えながら、かろうじて横目で睨むが、当の本人は「見てやるから早くしろ」と飄々としたものだ。 仕方なくもぞもぞと内腿を擦り合わせるようにして、唇を噛み締めたままノートに向き直る明日叶を見て、意地の悪い言葉が掛かる。 「そんな目しても駄目だぜ、ガッティーノ。勉強しに来てんだろ?」 それは俺の台詞だ!と、出来ることなら叫びたい明日叶である。 「全問正解したら、続きはゆっくりベッドの上でしてやる。じゃなきゃ、ここで啼く羽目になるぜ?俺はどっちでもいいけどよ」 どちらに転んでも同じ状況に陥るのは腑に落ちないが、今はもう、ここまで好き勝手されて黙っていられるかという気持ちと、むずがるように滞留する下半身の熱をどうにか振り払いたくて、結果的に、明日叶はこれまでにない気迫で問題に取り組んだのである。 その後、明日叶の声がどちらの室内で聞こえたのかは、また別のお話。 |
---|
◆あとがき◆ 久々のディオ明日でした♪実にベタなネタですいません。 おべんきょネタは太明日でも考えていたのですが、そちらが『ご褒美』がテーマになるとすると、 ディオ明日で書く場合は『お仕置き』が鉄板だろうなぁという、勝手な妄想から出来た産物ですw 公式設定の、ディオの得意科目が数学ってのに半端無く萌えたので、いつかクローズアップした いと思っていました。こんなゴツくて(見た目)チャラい理系男子なんて!最高だ!! 証明問題で定理使ってて、気付くと何度も何度も同じことを言っちゃってるってのは、雪織自身 が学生時代に陥りまくった罠です。なんでなのかね、あれ。 エンドレスループ。おぅ……orz 同級生組は、こうやって時々お強会開いてると楽しい。 2年生だけじゃなくて、1年コンビも♪ギャーギャー言いながらヤマ張りし合ったり。 3年生は……絶対なさそうだけど(笑) 2011.5.8 up |
×ブラウザを閉じてお戻りください×