何か聞こえた気がして、ふと意識が引き戻された。

眼を閉じたまま、息を潜める。
風の音も、葉擦れの音も、何も聞こえない。静かな夜だ。
寝入ってから、大分時間が経っている―――と思う。
本当に小さな音だったから、夢の続きか、気のせいか。
そのどちらかだと判断して、さっさと眠りにつくことも出来たのだが。
それでも。
ゆるゆると侵食しようとする睡魔と戦いながら、暗闇の中でじっと待っていると。


―――コン、、コン。


今度は確かにノックの音が聞こえた。
本当に微かな、躊躇うような音。
不自然な、間。



やっぱり。


曖昧だった「もしかして…」が確信に変わる。
明日叶は目を開けると、素早くベッドを抜け出した。
温もっていた身体が、夜気に触れて一瞬、ひやりとする。
パジャマのまま室内履きを適当に引っ掛けて、そっとドアを開けた。
消灯後の薄暗い廊下に、大きな人影。
けれど、俯いたまま途方に暮れたように立ちつくすその姿は、とても小さく見えた。
胸の奥が、きゅっとする。……もう、慣れた感覚だ。
「……おいで、太陽」
自分でも驚くほど優しい声が出た。
項垂れたまま、顔を上げようとしない影の手を取る。
握った掌は、痛いくらいに冷えていた。




照明を落としたままの部屋に入る。
先ほど感じた冷気も、ドア越しに廊下の温度を知った今では、むしろ暖かく感じるほどだ。
暗がりの中、縋り付くようにその身体を抱きしめた。
「太陽………」
頬に触れるTシャツが、切なくなるほど冷たい。

―――沈黙が下りる。

太陽は、ただ静かに明日叶を見下ろしていた。
相手が長身のため、抱きしめているはずの自分の方が顔を埋める形になってしまうが、それでも。
少しでも自分の熱を分けてやれるように、明日叶は思いきり腕に力を入れた。
その身体が、ほんの微かに震えていた。





どのくらい経っただろうか。
されるがままだった太陽が、しばらくして、ようやくおずおずと手を伸ばしてきた。
「……センパイ……?」
いつものとは別人のような、か細くて弱々しい声が落ちてくる。
それでも、ようやく声を聞けたことに安堵した。
躊躇いがちに腰に回された腕にも、僅かながら力が感じられる。
ほっとしながら、けれど身体は決して離さない。
「大丈夫だよ、太陽。みんな、ちゃんと帰ってきただろ……?」
言い慣れて久しい言葉を、明日叶は根気よく言って聞かせる。
ゆっくりとだが、触れ合った身体に温もりが移っていくのが分かった。


「ごめん……」
ことん、と太陽が肩に額を乗せてくる。
この冷たい身体を、何度抱きしめただろう。
そのたびに、太陽は繰り返す。
「ごめん、センパイ………」
ぽつり、ぽつり、と。
泣き出しそうな声で。
「大丈夫だ、ちゃんと戻ってくるから」
自分も、決まってこう返す。
当たり前の事実を述べるように、敢えて淡々と。
少しの揺らぎも見せない声音で。

「ごめん………」
「謝るな。―――心配かけて、悪かった」
「ごめん、センパイ……」
まわした腕の力はそのままに、明日叶は冷え切った頬に何度もキスをする。
宥めるように。
安心させるように。
自分は―――ちゃんと、ここにいると。





ミッションから戻ってくると、決まって笑顔で迎えてくれる、グリフの運転手。
張り詰めた緊張感を簡単に解いてくれるその明るさに、実働班の自分たちがどれほど救われたか分からない。

―――けれど、知らなかった。
たった一人で待ち続ける、孤独な重圧を。
今、仲間たちに何が起きているのかさえ分からない、薄ら寒さを。
規則正しく進み続ける秒針だけを頼りに、『絶対に』『必ず』『間違い無く』動くこと。
自分たちのように、臨機応変に行動を変えるわけにはいかない。
居て当然。居なければ、失敗。
そのプレッシャーと、たった一人で闘い続けなければならない太陽の苦しみを、俺は知ろうとしなかった。

人知れず、夜の埠頭で肩を抱いて蹲る姿が、今も脳裏から離れない。
触れた身体が、夜の空気と止まらない汗で冷え切っていく感覚が忘れられない。



恋人同士になっても、太陽のその癖は抜けなかった。
例えば、いつもより少しだけ危険なミッションに赴いた時。
亮一さんの立てた完璧に近い筋書きに、小さな狂いが生じた時。
そんな日の真夜中は、必ず扉が静かに鳴る。
何とか無事にミッションクリアを喜んで。
「おやすみ」と、笑って別れて。
けれど、みんなが寝静まった頃。

胸が締め付けられた。
自分と出会うまで。自分がこうして気付くまで。
どうやってこの夜をやり過ごしていたのだろうか、と。
声にならない悲鳴を飲み込んで、一人暗闇に呑まれまいと震えていたのだろうか、と。
――――たまらなくなる。



「太陽、おいで」
身に纏っていた硬質な空気が徐々に薄らぐのを感じて、明日叶はぽんぽんと相手の背中を叩いた。それを合図に、ようやく身体を離す。
そのまま部屋を横切ると、ほら、と先にベッドに入って、自分の横を示した。
泣きそうに眉を寄せたまま、けれど素直に太陽が近付いてくる。
腕を引いて半ば強引に横たわらせると、明日叶は身体を少し上にずらして、太陽の頭を抱え込むように抱いた。
二人分の熱で、冷えかけていたシーツはすぐに温度を取り戻す。

「明日、授業が終わったらラーメン食べに行こうか」
明るい色の髪に顔を埋めるようにして、唐突に提案する。
頬に、顎に、額に触れる、柔らかな髪の毛。大きな犬を抱きしめているようだ。
うん、と腕の中で小さく頷く気配がする。
「この間、眞鳥さんに美味しいっていうお店、聞いたんだ。あの人が薦めるラーメン屋って、なんかちょっと気にならないか?」
わざとおどけたように言うと、またこくんと首が動く。


顔は見ない。
乗り越えようとする彼の、歯を喰いしばる姿には気付かないフリをする。
―――太陽が、俺に見せたがらない部分。
ぎりぎりのラインで、抱きしめてやる。
それが俺がしてやれる、唯一のこと。


もぞもぞと腕が動いて、ぐいっと抱き寄せられる。
「明日叶センパイ」
幾分か強みを増した声と、完全に戻りつつある体温に、自然と笑みが浮かんだ。
「明日叶センパイ…」
「うん……ここにいる」
首筋をそっと撫でてやりながら、そう返す。
「センパイ……」
「……っ……こら……」
ぐりぐりと顔を擦り付けてくるくすぐったさに、身を捩る。
ひとしきり甘えかかると、明日叶の胸元で、太陽が大きく息を吸うのが分かった。
「……セン、パイ……」
「ん。おやすみ、太陽」
「……………ん」
すぐに、規則正しい息遣いが聞こえてきた。





静かな、静かな夜。
凍えた身体を抱きしめて、二人で眠る。











◆あとがき◆
太陽の“埠頭でガタガタ”イベントにキュン死したのは雪織だけでしょうか。
普段天真爛漫なキャラのああいう脆い部分に、強烈に弱いです。ノックアウトです。
ラブラブ後は、明日叶ちんに温めてもらっていればいい。
待つ恐ろしさっていうのは、中々気付かれにくいものだけど。
実は、一番辛いんじゃなかろうか、と。


2010.3.14 up







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