シャツの裾をはためかせていた風が止んだ。
徐々に速度が落ちると、もう慣れた軽い衝撃に、一瞬だけ身体が前のめりになる。
反射的に回した腕に力を込めると、器用に両足でバランスをとったまま、ヘルメットを脱いだ太陽が振り返って笑った。
「着いたよ、明日叶センパイ」



手を借りて地面に降りる。
よいしょ、とヘルメットを持ち上げると、暖かな空気が頬を撫ぜた。
つい先ほどまで身を切るような風の中にいただけに、優しく髪をくすぐる春風が何となく物足りなくて。それが少し、可笑しい。

視界が広がった途端、ちら、と淡い色が目の前を掠めた気がして、ふと上を向いた。
「う、……わ………」
思わず間の抜けた声が漏れてしまう。
ぽかんと見上げる明日叶の手からヘルメットを抜き取ると、太陽は手早くバイクを路肩に停め、得意そうに言った。
「スゴイっしょ、ここ!この季節の、オレのとっときなんス!」
「ああ……すごい…………」
中空を見上げたまま、明日叶は振り返ることなく答えた。
ぼんやりとした自分の声が、上から降ってくる色の洪水と相まって、ひどく現実離れして聞こえる。
「行こ、センパイ」
立ち尽くす明日叶の手をとって、太陽が斜面を歩き出す。
明日叶も素直にそれに倣った。




思いが通じ合ってからというもの、こうして太陽が運転するバイクの背に乗り、二人でいろんな場所へ出掛けていた。
ツーリングが趣味と公言するだけのことはあり、太陽はたくさんの“穴場”を知っていて。
授業の無い、土曜の朝。
『ねっ、センパイ。出掛けましょうよー!オレ、すっげぇ場所知ってるから!』
キラキラした目で、明日叶の元へやって来る。
すると、それだけで心はうずうずと騒ぎ出すのだ。
『うん、行く』
そう即答してしまう。断るなんて選択肢は、端から持ち合わせていない。
それくらい、太陽が連れ出してくれる場所は決まって魅力的で、いつも明日叶を驚かせてくれるのだ。





「ほらここ、立ってみて、センパイ!」
しばらく歩くと、太陽が唐突に立ち止まった。
繋いだ手をぶんぶん振って、たしたしと片足で地面を示す。
遊歩道のように、舗装などされていない道。
小さな山をぐるりと囲うように螺旋状に拓かれた砂利道は、遠目に見るよりもずっと勾配が強く、多少の運動には慣れているはずの身体も、ここまで登るまでにうっすらと汗に覆われてしまっていた。
ふぅ、と一息吐いて、言われたままに立ち止まる。
「はい、ぐる〜り一周!」
大きく首を回した太陽を目で追いかけて、明日叶は息を呑んだ。



360度、視界すべてが白や淡い紅色に染め上げられている。
陽光すら遮るほど密に乱立した木々は、どこからが別の木なのか分からない。
満遍なく花を付けた一帯の枝は、まるで一本の途方も無く大きな木のようで。
頭上で限界まで開いた花弁が、微かな風に揺すられ、後から後から零れ落ちてくる。
周囲に人の気配は無い。
風の音と、花の色。
ただ、それだけの空間に二人きり。



―――圧巻だった。



「すご、い……すごいな太陽………!」
本当にもう、自分でも嫌になるくらい陳腐な言葉しか出てこない。
胸に迫るこの美しさは、こんな、つまらない言葉ではとても言い表せないというのに。
―――悔しくて、もどかしくて。
けれど、隣に立った太陽は、そんな明日叶の苛立ちを微塵も気にするそぶりもなく、目を細めて微笑んでいる。
「よかったぁ、喜んでもらえて。いっぺん、センパイも連れてきてあげたかったんスよ。ここね、去年見つけたんスけど…おっどろいたなー。もう、この辺全部ぶわーって!風が吹くとバーって花がねっ」
身振り手振りを交えながら、一所懸命その時のことを話し始める。
自分と同じで、言葉で伝えるのがあまり得意でない太陽の、擬音語だらけの説明。
けれど明日叶には、その時太陽が感じたのであろう感動や驚きが、リアルに流れ込んでくるように思えた。

ふと、肩の力が抜けた。繋いでいた手を、きゅっと握りなおす。
そして、そっと触れるか触れないかくらいに身体を寄せて、呟いた。
「……綺麗だな、すごく」
溜息のように、素直な言葉が零れる。
それを聞いて、くしゃり、とまた太陽が笑った。
(上手く話せなくてもいい)
つられて明日叶も笑う。
繋いだ手の熱から、高揚した声から、優しく見詰める瞳から。
想いなんて、いくらでも伝わる。




そろっと太陽の手が、明日叶の髪に触れてきた。
「太陽?」
「いっぱい付いちゃったね、センパイ」
楽しそうに摘んだ指には、桜の花びらが何枚も。
「もう、終わりなのかな」
この花の寿命はとても短い。
咲きっぷりが見事なだけに、散りゆく姿に寂しさを覚えずにはいられなくて、思わず声が沈んでしまう。
散っても散っても、頭上を覆うその色は、一向に厚みを無くす気配はない。
けれど確実に、季節は巡る。
来週の今頃は、きっともうこんな景色は見られない。
時間は、残酷なまでに「今」を変えていく。
そんな当たり前のことに、改めて気付かされ。
ふと、言いようのない不安がよぎり、胸が締め付けられた。
けれど。


「そっスねー。でも、また来年、一緒に観に来ましょーよ!」
何でもないように明るく言った太陽の言葉に、胸の中に空いた小さな隙間は、驚くほど単純に、あっという間に埋められる。


また来年。
一緒に。


「そうだな」
ひたひたと温かい熱が胸に溢れて、なぜだか目頭が熱くなった。
こいつといると、涙腺が弱くなって困る。―――――本当に。
明日叶は誤魔化すように、自分から太陽の腕に顔を埋めた。
「せ、センパイ?」
珍しい展開に、太陽のうろたえた声が聞こえる。
「約束だからな」
「へ?」
訳が分からなくてきょとん、と瞬きしているだろう表情が、見なくても分かった。
思わず笑ってしまう。
「絶対だぞ」
冗談ぽくもう一度念を押すと、よくやく合点がいったとばかりに太陽が大きく頷いた。
「あ、うん!もちろんっス!」
そのまま、ぎゅっと抱き締められる。



馴染んだ腕の中。
その肩越しに、ひらひらひらひら。
春が舞う。



と、少し身体を離して、太陽が見下ろしてきた。
「明日叶セ〜ンパイ。花ばっか見てたらオレ、妬いちゃいますよ?」
拗ねた子供のように言ったかと思うと、長い指に顎を掬われた。
視界の端に降り続く花弁が、途端に色を失い始める。
ゆっくりと近付く優しい気配に、明日叶はそっと目を閉じた。


最後に見えたのは、柔らかな鳶色の瞳。
きっと、永遠に変わらない色。
この色を、この距離で、こんな気持ちのまま、見詰め続けていられればいい。
―――これからも、ずっと。


そんな必死の願いを肯定するかのように、甘い熱が唇に触れた。

























「……懐かしいな」
呟いた声が、風に掬われる。
少しだけ高くなった位置から見る景色は、それでも記憶の中のと寸分違わぬ姿でそこに広がっていた。



今ならもう、怯えることなく言える。
変わらないものも、きっとあるのだと。
守り続けていく、その覚悟と思いがあれば。
この両手は本当にとてもちっぽけだけど、たった一つ、一番大切なものくらいは、ちゃんと掴むことが出来るのだと。
そう言い切れるようになるまで、随分かかってしまったけれど。



風が、一際強く吹く。色で埋め尽くされたその瞬間、何も見えなくなった。
遠くで、自分を呼ぶ声が聞こえる。何にも遮られない、自分にとって唯一の。
「もう、その呼び方、いい加減止めろって」
仕方ないな、と明日叶は苦笑した。


優しい目の色、穏やかに打つ鼓動、手のぬくもり。
一緒にいる限り、この花の美しさもきっと変わらない。


昔より少しだけがっしりした長身が、向こうで手を振っている。
「―――また、いつか」
目を細め、誰にともなく呟くと、明日叶は歩き出す。



ずっと変わらない、自分の居場所に向かって。















◆あとがき◆
わたべ様から戴いたキリリクss、お題は「お花見」でしたー♪[キリ番2020]
本当はもっと色々美味しいご指定戴いてたのに(いやマジで)、雪織の力不足により、
本当に桜見るだけの、ただのお花見ネタになっちまいました…嗚呼……!orz
今年はお花見行けなかったので、書いててとっても楽しかったですvv(自分が)
ラストの部分は、後で書き足しました。こうなってるといいなっていう、個人的な願いを込めて。
とにもかくにも、リクエストありがとうございましたっvv

2010.4.13 up







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