ちりん。 入り口の扉が小さくベルを揺らし、新たな客の訪れを知らせる。 次の瞬間、店内の空気が、少しだけ波立つのが分かった。 後ろのボックス席で賑やかに盛り上がっていた男女の声が、一瞬だけ、不自然なくらいに静まり返る。 (相変わらずだな) 正面を向いたまま、小さく笑みを零す。 振り返るまでもなく、唖然とその姿を見上げているだろう他の客の様子が、手に取るように分かってしまうから。 と、気配も無く、隣のスツールが小さく軋んだ。 ―――本当に、全然変わらない。 「久しぶりだな、ディオ」 顔馴染みのマスターに、軽くグラスを掲げて自分と同じものを頼むと、明日叶は嬉しそうに身体を反転した。 着ていたジャケットを優雅に脱ぎ去り、首元を締め付けるタイを忌々しげに緩めていたその顔が、明日叶を認めて綻ぶ。 「元気そうだな、ガッティーノ」 下腹に響くような美声と、どこかからかうような口調。 古い友人で、しかも同性の自分ですら思わず見蕩れてしまいそうになる、立派な体躯と整った貌。何をやっても優雅に決まる所作と、滅多に崩れない余裕の笑み。 ―――そんなところは、学生時代と全く変わらない。 「俺、いつまで子猫のまんまなんだよ」 思わず苦笑を漏らし、久方ぶりの友人の“らしい”言動に突っ込みを入れる。 面白そうな瞳の色はそのままに、ディオが大げさに肩を竦めた。 「俺にとっては永遠に、だな。でもお前、確かに」 大人になっちまって、可愛くねーの。 わざとらしい拗ねるような言い方に、今度こそ声を出して笑ってしまう。 「そりゃなるよ。何年ぶりだと思ってるんだ」 コトリ、ともう一つ、グラスが運ばれてくる。 長い指が、3本の指だけで器用にそれを掴んだ。 「それじゃ、久々の再会に」 心底嬉しそうに目を細めたディオの言葉を引き継いで。 「乾杯」 明日叶はかちり、とグラスを合わせた。 「本当に、何年ぶりだ?」 コンスタントにグラスを傾けながら指折り数えるディオに、明日叶も感慨深げに応える。 「前回顔合わせてからは…4年。学園卒業してからだと6…、いや7年ぶり、かな」 ハッとディオが隣で笑う。 「そりゃ懐かしいわけだぜ。まさか同じ仕事に就いたものの、こんなに仕事被らねーもんだとは思いもしなかったしな」 その言葉に、明日叶も頷く。 学園卒業後、互いに念願だったマニュスピカにはなれたものの、隠れ蓑(というのもなんだが)に選んだ職種が違ったこと、そしてそれぞれ語学が堪能であったため必然的に海外ミッションに借り出されることが多くなったことも働いて、二人が同じミッションに携わる機会は皆無と言ってよかった。 たまたま前回――4年前の話だが――、大掛かりな盗品回収包囲網を敷いていたその時、お互い知らずに別ルートから同じものを追っていたらしく、渦中の現場で偶然顔を合わせたのが唯一だった。 緊迫した現場で一瞬、呆けたように互いの顔を見つめあったあの瞬間の記憶が、まるでつい先日のことのように鮮やかに蘇ってきて、懐かしい。 ―――いや、あれは果たして偶然だったのか。 「あん時のお前の顔」 くつくつと思い出し笑いをするディオに、明日叶が頬を膨らませる。 「なんだよ、ディオだって目に見えてぎょっとしてたじゃないか」 「そりゃ驚くだろ!今から落とそうとしてるターゲットの横で、親しげに一緒にメシ食ってんのが昔馴染みなんだからよ」 明日叶もつられて笑い出す。 「俺も潜入中だったんだよ。ディオと違って、その何ヶ月も前からの長期戦で。例のごとく、上からは『いつ』『どんな奴が』仲間として、ターゲットを罠に嵌めにくるのかは知らされてなかったし。ディオがやって来るの見て、ナイフとフォーク取り落とさなかった自分を褒めてやりたいよ」 本当に、あの時は驚いた。 悪評高い、それこそ窃盗どころか殺人や強盗の疑いまで持たれていたターゲットに、自分は同志だと思い込ませて友人関係を構築し、懐に潜り込む。 その時の明日叶の仕事は、そういうものだった。 腐臭のする、汚泥に塗れるような毎日だった。 目の前で繰り広げられるえげつない遣り取りに笑顔で応え、焼けた鉄を飲み込むように、身体の中で暴れる本音を宥めすかしながら、美辞麗句を並べ尽くす。 美しいものを得るために、血を流しても肉を削ぎ落としても心を壊しても、なんら罪悪を感じない、狂った美意識の持ち主に。 寄り添うことで、正直、明日叶自身も壊れる寸前だった。 芸術品を私利私欲のためにゴミのように扱う人間は、それまでの何年間かの仕事の中で、嫌というほど見慣れてしまっていたし、それに慣れつつある自分自身にも嫌悪感は感じ始めていた。けれど。 あのミッションほど、『仕事だから』という言葉で己を守ることの出来ない、辛いものは無かった。 もう少しそこにいたら、もう確実に戻れない場所まで自分の心が潰れてしまうだろうことが、自分自身でも分かってしまっていた。 その日の夜も、もはや思い出すことすらしたくない下劣な話を意気揚々と語るその男に、笑顔で相槌を打ちながら、砂を噛むような心地で食事を共にしていた。 血の匂いのする新鮮なステーキを一口頬張った瞬間、 (あ、駄目だ) と、心底思った。 そして、焦った。 こんな些細なことで、数ヶ月にわたる自分の我慢を、何年にも渡って計画を遂行してきた仲間の苦労を、水泡に帰すわけにはいかないのに。 崩れ出そうとする理性を、もう微かにしか残っていないなけなしの自制心で必死に繋ぎ止めていたその時。 現れたのがディオだった。 「正直、助かったよ……あの時は」 自嘲気味に口の端を上げて、明日叶がぽつりと呟く。 「なんだよガッティーノ。珍しく素直じゃねーか」 軽口を叩いて、けれどディオは優しく眉を顰めた。 きちんと整えられた髪に、無造作に手を突っ込む。 わずかに乱れた髪が、懐かしい彼の少年時代を思い起こさせた。 「驚いたのはさ、久々にお前の顔見たせいってのもあったけどよ。それ以上に、お前がヤバいくらい限界っぽく見えたからだよ。おい、なんでそんなことになるまで、何やってんだ、ってな」 その驚きの前にゃ、懐かしいとかそういう感傷なんか吹っ飛んだぜ。 ディオが苦笑する。 「その点、しっかり見越してたんじゃねーかって思うと、やっぱり上層部って喰えねーし、ムカつくよな」 「……そうだな」 確かに。 あの限界寸前の状況で、明日叶を確実に掬い上げられたのは多分、たった一握りの人間でしかなかった。 そんな数少ない中の一人を、本当にタイムリーに、効率的なやり方で目の前に送り込んできたマニュスピカ上層部は、本当にもう、末端の自分たちのことなど何もかも見透かしていて、その苦しみも限界点も全て“込み”で計画を紡ぎあげているのではないかと思わせる。 そんな、空恐ろしいまでの完璧さ。それが自分たちの目指す、高みなのだ。 「まだまだ、だよな。俺たちも」 「だーな。『まだまだヒヨっ子でちゅー』ってか」 やれやれと、顔を見合わせて笑う。 上着の内ポケットに手を伸ばすと、ディオが驚いたように眉を上げた。 「お前、吸うのか?」 とんとん、と手馴れた仕草で一本取り出すと、明日叶はああ、と小さく笑う。 「ほんと、たまにだけど。お酒入ると、どうしても欲しくなる」 一緒に取り出した安物のライターで火を点けると、一口含んで、小さく吐いた。 「おいおいおい。ほんと、すっかり大人になっちまったな」 どこか寂しそうなディオの声音に、笑ってしまう。 差し出す指に一本挟んでやると、ディオが顔を近づけてきた。 「なんだよ、ライター使えよ」 「いいだろ、別に」 文句を言いながらも、明日叶はじっと動かずにいてやる。 しばらくして、移った火を旨そうに吸い込むと、ディオが言った。 「学生の頃は、お前に散々『煙草臭い』『匂いが移るからあっち行け』とか冷たくあしらわれてたのにな」 「悪かったよ。でもディオ、お前のは酷すぎた」 俺、可哀想。と呟くディオに、昔を懐かしむように宙を見る。 と、珍しく真面目な顔でディオが忠告してきた。 「でも明日叶、俺が言うのもなんだが、吸いすぎは良くないぜ」 「本当に、お前にだけは言われたくないよ」 呆れたようにそう返すと、大丈夫、と明日叶は続けた。 「今は、言われる立場だよ、俺も」 「なるほどな」 ニヤリと笑った顔が、本当に昔のまんまで、明日叶は嬉しくなる。 「マスター」 バーカウンターの端で静かにグラスを磨いている初老の男に、声を掛ける。 新しくオーダーしたその銘柄を聞いて、ディオが驚愕に目を見開いた。 「ガッティーノ……おまえ、」 「酒まで詳しくなっちゃって、悪いな」 先回りして謝っておく。 いつまでも、子猫のままじゃいられなかったんだよ、俺も。 少しだけ、寂寥感が胸を掠めた。 だが、そんな明日叶を軽く笑い飛ばすように、ディオが鼻を鳴らす。 「いや、まだまだだ。まだ『永久歯が生えかけた子猫ちゃん』って程度だな」 「なんだよそれ」 明日叶が怪訝そうに首を傾げると。 「本当の大人の男なら、こんな見える場所に、こんなもん付けて、盛り場ウロウロしないもんだぜ」 するり、と項を指先でくすぐられて、明日叶がびくりと反応する。 「なっ……!」 一拍の後、慌ててそこを手で隠すと、一気に顔を朱に染める。 「ほーらな。そういうとこ、お前、全然変わんねー」 声を上げて、心底嬉しそうに笑うディオを精一杯睨みつけた。 だが同時に、さっき感じたどこか寂しい感じが、さらりと払拭されるのが分かって、明日叶はひっそりと微笑んだ。 ちりちりん! 先ほど、ディオが入ってきた時とは雲泥の差で、賑やかなベルの音が鳴る。 店内に響く力強い足音に、ディオが声を上げて笑った。 「相変わらずだな」 明日叶が、ディオに対して感じた感想そのままを、今度はこの男が口にする。 そのデジャブをくすぐったく感じながら、明日叶は手早く右手に持っていた火を消した。 「おい。後ろの奴ら、完全に見蕩れてんぞ」 確かに、今度は背後で小さなどよめきが起きていた。 ディオの時とは、正反対な反応。 けれど、同じくらい人目を引くその容姿は、明日叶が一番よく知っている。 明日叶の脇を肘で突きながら、きょろきょろと自分達を探しているのだろうその姿を、どこか嬉しそうに眺め遣る。 そんなディオの優しい表情を横目で見て、明日叶はふと目元を和ませた。 あっ!と、よく通る声が店内に響いた。 「遅くなってすいません!兄貴〜〜〜〜久しぶり〜〜〜〜〜っっ!!!」 「おい、ちょ、太陽っ!ギブギブ!!」 すっかり自分の背丈を追い越したその長身に力一杯抱き付かれて、ディオが真剣に呻いた。ばしばしと遠慮無くその肩を叩く。 「あ、すいません」 照れたように笑うと、ようやく身体を離す。 「おまえ………ほんっと、無駄に育ったな」 顔を顰めたまま嫌味を言うディオに、何ら堪えることなく、えへへ、と嬉しそうに笑うと、太陽は明日叶の横に腰を下ろした。 逆隣りから、「嫌味すら通じねー純粋さは変わらねーな」というディオのぼやきが聞こえてくる。 「ごめんね、センパイ。遅くなっちゃった」 座りながら、ちゅ、と慣れた仕草で唇を合わせてくる。 新しいグラスを用意してくれているマスターも慣れたもので、視線すらこちらへは遣らずにいてくれる。 ―――と。 「あ〜〜〜。明日叶センパイ、また煙草吸ったでしょ!!」 ぺろりと舌なめずりすると、口をへの字に曲げて太陽が不満を漏らした。 「駄目だってば〜。身体に悪いっスよ!?」 肩を竦めて、明日叶がディオに目配せする。 「………な?」 堪えきれないといった風に、ディオが盛大に噴き出す。 「……へ?どうしたんっスか?」 きょとん、と二人の顔を交互に見遣る太陽に、二人揃って爆笑する。 「あーもう!センパイも兄貴も〜〜!久しぶりなのにオレだけ除け者って、ひどくないっスか〜〜!?」 「悪い悪い……っ」 煙草を持つ手に顔を伏せたまま、ディオは肩を震わせる。 「お帰り、太陽」 明日叶は伸ばした手で、柔らかな髪を軽く撫でてやった。 目を細めてそれを受ける太陽に、ディオがどこか感慨深げに一人ごちた。 「変わらねーんだな、お前らは」 皮肉げに上がることの多い口角が、穏やかな笑みの形を作る。 「いや。“俺たちは”、だろ?」 首を傾けて、ディオの瞳を覗き込む。 一瞬だけ真顔に戻ると、ディオは誤魔化すようにグラスを煽った。 「………そーだな」 何年経っても、どれだけ違う時間を生きていても。 会えばこうして、まるでずっと傍にいたかのように笑いあえる。 これがきっと、自分を支えてくれている根幹。 だからずっと、生きていける。―――この世界で。 新しい3つのグラスが目の前に並ぶ。 「さて、じゃあ改めて」 カコン、と大ぶりな氷がそれぞれの手の中で鳴った。 「久々の再会を祝して」 「…お前らは毎日会ってんだろーがよ」 「でも兄貴とはオレ、マジで卒業以来っスよ!?」 「ソレを言うなら、俺だってディオとちゃんと話すのは」 「あーはいはい、分かったって!なげーんだよ、その話始めると」 「じゃっ、飲みましょうかっ!……あ、その前に」 「どうしたんだ?太陽」 「いやー…その、兄貴…、オレの勘違いかもしれないんスけど、」 「あん?なんだよ」 「もしかして……その、………縮みました?」 「………………」 「…………ぶっ」 「………おい太陽、やんなら相手になっぞ。外出ろや」 「へ!?いやいやいや!?違いますって、うわ、ちょ、タンマ!」 「あーもう、二人とも静かにしろよ」 「センパイ!笑ってないで、兄貴止めて下さいよ!!」 「あー……無理。太陽、お前が悪い」 「おいこら明日叶、お前もいい加減笑ってんじゃねー」 「はい、再会を祝してカンパーイ」 「ああ!一人でズルイっスよ!!」 「おら太陽、お前はこっちだろ。売った喧嘩はキッチリ責任取んのが元ヤンの礼儀じゃねーのか」 「どんだけ前の話してんスか!オレは今は……」 ぎゃーぎゃーと言い争う二人を傍観しながら、明日叶は最高級の酒を一口煽った。 強めのアルコールが、喉をちりりと焼く。 その心地良い痺れに、心から穏やかな溜息を吐いた。 だから俺たちは、生きていけるのだ。 これからも。 |
---|
◆あとがき◆ 朝起きた途端に「…未来の話が書きたい」と思い立って出来た話です。(←もはや病気の域) マニュスピカになって数年後、みんな大人になったねーな再会話でした。 内容の通り、ベースは太陽×明日叶です。そこは譲れなかった(笑) 個人的に、明日叶ちんが愛煙家になってるとこがミソです。 みんな、どんな仕事(表向きの)してるんでしょうね。 雪織の中でのイメージ(妄想)はありますが、それは人それぞれだと思うのでここでは割愛します。 太陽は絶対、将来的にディオよりゴツくなっているという希望的観測、 2010.5.8 up |
×ブラウザを閉じてお戻りください×