「それじゃ、センパイ」


ずっと繋いでいた手が、するりと解けた。
最後の最後まで触れ合っていた人差し指が、名残惜しさを引きずるように、互いの手の甲をそっと撫でる。
そんな感傷を振り払うように、太陽は肩に掛けたバッグのショルダー部分を、よいしょ、と抱え直した。


「それじゃ、ね」
もう一度そう言うと、太陽はくしゃり、と笑った。
その眩しい表情を、見上げるようにして、明日叶は目を細めた。
「ああ」


そのまま、しばらく見詰め合う。
言葉が―――気の利いたセリフが、見つからない。
何か、伝えなきゃいけないのに。


「やっぱり、ホームまで…」
思わず言いかけた言葉を遮って、太陽が首を振った。
「いいよ。余計寂しくなっちゃうから」
冗談めかして片目を瞑ると、肩を竦める。
二人の間に空いた、距離にしてたった3歩ほどの空間。
昨日までは、いや、今朝までなら、息をするように自然に詰められた距離。
―――なのに。
今、この足は憎らしいほど冷静で。
物分り良く納得したフリをする理性の皮下で、見苦しく足掻き続ける本音に、ちっとも味方などしてくれなくて。
じっと、悔しいくらいに行儀良く、その場を動かずにいる。



頭がちゃんと働かない。
口を付いて出てくるのは、本当に決まりきった、形式的な言葉ばかりで。
「身体、気を付けろよ」
「うん」
「あんまり、無茶するな」
「うん」
「辛くなったら…」
「センパイのこと思い出して、頑張るっスね」
笑顔のまま、見透かしたようにそう続ける太陽に、明日叶は苦笑した。


(大人になった)
もう、冗談でも『帰ってこい』なんて、言えないのだ。この、年下の恋人には。
―――それが例え、明日叶自身の本音だったとしても。
そして、もし本気であっても。
『分かった」なんて言ってはいけないのだ。こいつも。




その瞬間、明日叶は唐突に理解した。

一所懸命自分の後を追いかけて、キラキラした瞳でこの腕に纏わり付いていた日々。
明日叶が学園を卒業して、互いの生活の場が変わって、それまでみたいに頻繁には会えなくなっても。
放っておいたら、捨て犬みたいな顔で寂しがっていそうな気がして。

ずっと、ずっと
俺が、こいつの手を引いていたつもりだった。
けれど本当は、その頃からとっくに、守られていたのは自分だったのだ。
その証拠に今、こいつはこんなに穏やかでいる。
ちゃんと、離れる準備をしていたことを、この凪いだ瞳が雄弁に語っている。
必死で、吐き出してしまいたい本音を、死に物狂いで殺している自分とは違って。
捨てられた犬のような目をしているのは、きっと俺の方だ



ふと、馴染んだ感触に目を閉じる。
耳下に差し入れられた大きな手が、優しく明日叶の髪を梳いた。
どうしようもなく、泣きたくなる。

最後の夜、太陽は明日叶を抱かなかった。
ただ、互いの身体が触れるか触れないかの優しい距離で、そっと明日叶を抱き締めて眠るだけ。
けれどキスも愛撫もしないその優しい身体は、たった一度だけ、繊細なガラス細工を扱うような慎重な手付きで、明日叶の髪を梳いた。



せめて最後は笑顔で。
何の曲の歌詞だったろうか。使い古されすぎて、特定なんて出来やしない。
けれど、こんなに同調出来る言葉は他には見当たらない。




「待ってるな」
僅かに太陽が目を見開いた。
「お前が帰ってくるまで、待ってる」
頼むから、これが最後の我侭だから、笑って頷いてくれないか


太陽の背後でアナウンスが入る。
「…っ、行かなきゃ」
微かに見せた躊躇うような空気が、ようやく明日叶に自信を与えてくれる。
「行ってこい」
「……うん」
ちゃんと言える。
「頑張れ」
「……っス」
「俺は、変わらない」
「……………っ」
もう、顔は見ずに、ぱんと背中を押してやる。
「変わらないよ。だから」
ちゃんと、戻ってこい。
年上のくせに、お前がいないとどうしようもない、俺のために。



「センパイ!」
改札をくぐる太陽が、堪えられないというように叫んだ
「帰ってくるから!オレ、もっとセンパイ支えられるくらい大人になって、絶対!帰ってくるから!」
ぶんぶんと大きく腕を振る
電車がホームに滑り込む
こんな時なのに、笑ってしまうくらい陽気なベルの音が響く
明日叶も腕を上げた
「楽しみにしてるよ!」
精一杯、笑ってそう叫ぶ
馬鹿だな
もうお前は、俺なんかより、ずっとずっと大人だよ


最後に明日叶の笑顔を確かめて、太陽は安心したように笑うと閉まろうとする扉に慌てて足を踏み入れた
ゆっくりと、電車が走り出す
明日叶の立つ改札前からは、すぐにその姿は見えなくなって




と、ポケットの中で携帯電話が震えた
すぐにその主が分かってしまう

『お前なぁ…さっき別れたばっかりだろう?』
呆れたように返信すると、すぐさま返信が来る
『だって、離れるとすぐセンパイのこと、恋しくなっちゃうんスもん』
同じ学園に通っていた頃は昼休みが終わるたび
夜、それぞれの部屋に戻った後
明日叶が卒業してからは、デートの帰りには必ず
決まって太陽は、別れた直後、すぐにメールを送ってきた

『もうセンパイに会いたくなっちゃった』
その一言と一緒に、必ず


微かに震える手で、携帯電話を取り出す
そっと開いて、表示ボタンを押した
ふと、笑顔が零れるやっぱりな、という諦めに似た頼もしさと
そして


人の波も引いて、さっきよりずっと静かな駅の構内
ぼたぼたと足元の床が、濡れてゆく
もう、いいか
もう、本当の気持ちを隠さなくても

明日叶は立ち尽くしたまま、両手で携帯電話を握り締めた
涙で濡れた画面には、たった一言





『行ってきます』












◆あとがき◆
スキマスイッチの「奏」を聞いてたら、ふと太明日でシンクロしちゃいまして(^-^;)
設定としては、明日叶ちんは大学生、太陽が学園卒業時、かな?
近隣の大学に進学した明日叶ちんとは反対に、より高度な技術を学ぶため遠方へ旅立つことに
なった太陽。その旅立ちと別れを書いてみました。
ずっと一緒にいたいけど、ずっと一緒にいるために一度離れる。
同じスタートラインから走り出して、違うコースを経て、同じゴールを目指す。
そんな感じです。書いてて自分で切なくなりました(苦笑)
別れの当日は、太陽の方が落ち着いていそうです。やると決めたら揺るがない、みたいな。
太陽の基本姿勢は「センパイを守る」だから、目先の自分の苦しみには必死で耐えそう。
いつか訪れるだろう未来だけど、願わくばずっと心は離れずにいて欲しいと願います。

なななんと、お友達のてりさんがイメージイラスト描いてくれました!
てりさんの素敵サイトはこちら→→ 空間〜kongjian〜

2010.5.3 up







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