変な胸騒ぎはしたんだ。 足音高くエントランスを横切ると、明日叶はエレベーター横のボタンを押した。 カチカチと必要以上に何度も押すその仕草は、いつもの彼からは珍しく苛立ったもので。 高い金属音と共に開いたドアに素早く滑り込み、「閉」のボタンを押す。 ―――周囲に人がいなくて良かった。 ドアが閉まると同時に、明日叶は小さく息を吐いた。 我ながら配慮に欠けていると自覚しながらも、今は他人のことに構っている場合ではない。…そう思ってしまう自分に、微かな罪悪感と違和感を感じる。 普段なら気にならない階数表示のゆったりとした動きが、妙に癇に障った。 じりじりする気持ちを押さえ込むかのように、握り締めていた携帯電話を開く。 一件の受信メールを表示したまま閉じられていた画面が、手の中で光を取り戻す。 もう何度も読み返したその短文に目を落とし、もう一度溜息を吐いた。 8階を示すデジタルの表示を一瞥すると、明日叶は足早に歩みを進めた。 「あれ?」 思わず小さな声が漏れた。 それぞれ午前中の一般教養の授業を終えた月曜の午後。 昨日行われたミッションの反省会と銘打って、チームグリフの面々は作戦室に集まっていた。 そこに、ファイルを片手に亮一さんが駆け込んで来る。 ごめんごめんと申し訳なさそうに皆に向けて片目を瞑ると、早速本題に入ろうとする。 その時だった。 怪訝な声で呟いた明日叶の疑問符に、ちょうど正面に立った亮一さんが気付いた。 「ん?…ああ、太陽かい?」 その場に不在のメンバーの名を、的確に示す。 「あれ?明日叶、聞いてなかったのかい?彼は」 意外そうに小首を傾げてそう言いかけた瞬間、ヒロが肘でその脇を突いたのが見えた。 続けた言葉で明日叶の顔が途端に曇り出すと、あまり察しの良くない亮一さんもようやく自分が口を滑らせたことに気付いたようで、彼にしては珍しく焦った様子で付け加える。 「あ、いや、ほら、太陽も心配させたくなかったんだよ、きっと」 ね?と、優しい瞳が明日叶を覗き込んでくる。 ざわざわと波立っていた嫌な感情が、束の間和らぐ。…ほんの束の間。 すぐにでもその場から駆け出したい衝動を押さえ込んで、明日叶は無理やり口元に微笑みを作り、頭を下げた。 「すいません、続けてください」 幾分かほっとした様子で、亮一さんが仕切り直す。 手元に配られた資料に目を落とし、明快に前回の反省点を挙げていく亮一さんの声に耳を傾けながらも、明日叶の思考は昨夜のあの時に戻っていた。 「さっむ〜〜〜〜い!!!」 停めてあったバンに、ヒロが悲鳴を上げながら走り込む。 がちがちと歯を鳴らし、自慢の形の良い唇も青みがかって震えている。 「ま、まさか、この時期に雪降る、なんてっ、思わないよね……っ」 途切れ途切れに非難の声を上げるヒロに、今回ばかりは同感だとディオも頷く。 「まーったくだ。外、ほとんど吹雪だぜ?おいヒロ、明日叶、濡れた服脱いどけよ」 風邪引くぞ、と言いながら、ディオは自分もうっすらと白くなったジャケットの上着をさっさと脱ぎ捨てた。 「お疲れ様、3人とも」 今回、実働班として現場に出ていた明日叶たちに、暖かい労いの言葉が掛かる。 そんな亮一さんや桐生さんバックアップ班も、いくら車内とは言え、エンジンを切ったままの空間に長時間待機していたのだ。顔色がいつもより青い気がする。 全員が乗り込むのを確認すると同時に、素早く車を発進させた太陽が、すぐにエアコンのスイッチを入れる。 「悪いっスけど、しばらく我慢してくださいねー?足、上げといた方がいいかも」 太陽の言う通り、送風口から出る冷風が足元を掬う。 エンジンが温まりきるまでは仕方ない。 なるべく身体に当たらないようにという太陽の気遣いを知ってか、いつもなら文句の一つも言うヒロですら、大人しく靴を脱いで膝を抱えた。 3月末日。 ここ数日続いていた陽気に、すっかり春の訪れを信じきっていた。 うっかり春夏用の、より動きやすいミッション服で臨んでしまったことも、きっと誰にも責められない。現に朝の気象予報ですら、ここまでの寒さは予想出来ていなかったのだ。 まるで冬将軍の最後の抵抗のように、昼前から猛烈な寒気がこの地域を襲っていた。 ミッション開始から数時間。 何とか現場での潜入を無事終えて、離れた場所に停めてある車まで走らねばという頃にはなんと、細かな雪の欠片と風のせいで視界が利かないほどの吹雪になっていた。 助手席に転がり込んだ明日叶も例外ではなく、ディオに言われるまま上着を脱いだはいいものの、今度は剥き出しの腕に容赦無く冷気が纏わりついてくる感触に身を震わせた。 「センパイ、これ」 シートベルトの下で器用に身体を捻りながら、太陽が着ていたパーカーを脱いだ。 ハンドルから離した右手を伸ばして、はい、と明日叶の肩に広げて乗せる。 途端に、首元から腕、背中まで、ふわりと熱に包まれる。思わず肩の力ほっと抜けた。 馴染んだ匂いに、まるで抱き締められたような錯覚に陥って、別の意味でも熱が上る。 「だめだよ太陽、お前も寒いだろう」 長袖のパーカーを脱いだ太陽は、自分と同じ半袖姿だ。 照れくささ半分、心配半分で、固辞しようと脱ぎかける。 その手を軽く押さえて、太陽は笑った。 「大丈夫っスよ、明日叶センパイ。ずっと中にいたオレより、センパイのが冷え切ってるでしょ、身体。風邪ひいたら大変だから」 オレ、馬鹿だから風邪ひかないしー。 前を向いたままおどけたように言う太陽の横顔がどうしようもなく優しくて、心の中がひたひたと暖かいもので満たされていくのが分かる。 「………ありがとう」 素直に礼を言うと、ぽすんと座席に収まり直す。 太陽の体温が移ったパーカーを羽織っているだけで、なんだかもう、エアコンの風なんて不要なくらいにぽかぽかと暖かい気がした。 ふと思い立って、明日叶は後部座席に座った皆に見えないよう、足元を覗き込む振りをして身を屈めた。 そのまま、ギアを握る大きな手に小さくキスをする。 ぴくっと小さく跳ねる手にそっと笑みを零すと、知らん顔で身体を戻す。 後ろから、ようやく暖かくなってきたと仲間たちの嬉しそうな声が聞こえる。 優しいエンジン音と顔をくすぐる温風が気持ちよくて、明日叶はしばらく目を閉じることにした。 あの時、唇に触れた手の感触に、どうして気付かなかったのだろう。 静かに扉をノックする。 そっと叩いたつもりが、思ったよりも静かな廊下に響いてしまって、思わず身を竦める。 ……起こしてしまっただろうか。 それでも、拒否されても構わず入る気でいたから、ノブに伸ばす手は躊躇い無かった。 音を立てないようにドアを開けると、明かりの落ちた薄暗い部屋に足を踏み入れる。 ―――瞬間、独特の重たい空気が明日叶の身体をも包む。 手に持ったナイロン袋が、机の上に置いた弾みでくしゃりと音を立てた。 それでもベッドの上の人影は微動だにせず、忙しげな呼吸を繰り返すだけ。 足音を忍ばせて歩み寄ると、闇に慣れた目がその部屋の主をぼんやりと映した。 濡れて貼り付いた長い前髪。 うっすらと上気した頬。 不規則に揺れる胸と、時折喉を鳴らす引き攣れた空気音。 苦しげに寄せられた眉間の皺は、明日叶ですら見たことのない硬い表情で。 それら全部を認識した途端、明日叶は唐突に泣きたくなった。 すごく、―――すごく怒っていたはずなのに。 たまらなくなって、そっと手を伸ばした。 恐る恐る、指先だけで目に掛かる前髪を払ってやる。 その時掠めた額の熱さに、改めて衝撃を受けた。 「………ばかやろう」 搾り出すように呟くと、明日叶はその場を動きたがらない自分の足を引きずるようにして、洗面所へ向かった。 「…………ん……」 背中で小さな身じろぎを感じて、明日叶ははっと振り向いた。 つい今ほど取り上げたタオルが、ぱしゃんと洗面器の中に落ちる。 「太陽?」 小さな声で確かめるように呼びかけた。 その声が、自分でも驚くほど震えていることに気付く。 ふるりと睫毛が震えたかと思うと、ゆっくりと瞼が上がる。 熱のせいで焦点の合わない瞳が、それでもぼんやりと明日叶を見上げてきた。 「え………あ、れ……、センパイ………?」 聞いたことの無い、掠れた弱々しい声。 額に浮かぶ汗の玉が、未だ熱が引いていないことを示しているが。 すぐ傍に明日叶の姿を認めた太陽は、へにゃっと表情を崩した。 「あすかセンパイ、わざわざ…来て、くれたんスか……?」 ひゅーひゅーと苦しそうな息のまま、嬉しそうに笑う。 その屈託の無い、いつも通りの笑顔に、明日叶はもう我慢出来なかった。 亮一さんから事実を聞かされた時からずっと、身の内に渦巻いていたやるせなさが、濁流のように激しい流れで言葉を押し出す。 「ば…っかやろぅ……!!なんで言わなかった…!!」 相手が病人であることも、その瞬間、頭から飛んでいた。大声で叫んでしまう。 ぽかんとしたまま見詰めてくる太陽から、思わず顔を逸らせた。 駄目だ、もう。 堪えきれなかった涙が、頬を伝う。 それを乱暴に拭うと、明日叶は氷水に浸かったタオルぱしゃぱしゃと洗った。 指先の冷たさに呼応するように、少しずつ冷静さが戻ってくる。 『太陽のやつ、風邪ひいちゃったみたいでさ。昨日のミッション中、急に吹雪いてきただろう?それで…』 続きを促す明日叶の視線に負けたというように、困ったような顔で亮一さんは教えてくれた。 雪が降り始めてすぐ、太陽はタイヤにチェーンを装着するため車を降りたらしい。 仲間の移動時に於いて、絶対の安全性を約束するのが太陽の役目だ。 様々な道を走り慣れた彼は、リーダーである亮一さんが指示するよりも先に、その必要性を感じ取って動いた。勿論、ミッションに使う車にはその備えもされている。 手伝いを申し出た亮一さんたちを「オレがやった方が早いっスから!大丈夫」と頑なに押し留めて、あの極寒の中、一人で30分もの間作業に取り組んでいたという。 『今回ばかりはわんこに申し訳なかったですねぇ……』 眞鳥さんが珍しく深刻な顔で溜息を吐いた。 その頃ちょうど、実働班の自分たちから絶え間なく入りだした無線の声に、亮一さんと桐生さんは必然的に集中せざるを得なくなった。 残った眞鳥さんや興さんは、さすがに仲間一人吹雪の中に置いて自分達だけぬくぬくとしていられるわけないと外に出ていたらしいが、手際良く作業を進める太陽を前に、出来ることはほとんどなく。結局、吹き荒ぶ雪から傘や身体で庇ってやることしか出来なかったらしい。 『オレたちは立ってただけですけどね。わんこは多分、相当汗もかいてたでしょうし…』 興さんも気落ちした様子で俯いている。 『あ、あの』 どんより沈み出した空気を払拭するように、明日叶は努めて明るい声を出した。 『俺、この後様子を見に行ってきますから』 『そうかい?助かるよ』 亮一さん始め、皆の顔が少しだけほっとしたように見える。 『あいつが風邪ひくなんて……ちゃんちゃら可笑しいんだけど、さ』 ヒロの声にも元気が無い。 『人の心配してる暇あったら、自分の体調管理くらいしっかりしろってんだよ』 空調を入れ始めた時の遣り取りを指しているのだろう。 けれど明日叶には、その言葉が別の意味に響いた。 あの時。 ふわりと肩を覆ってくれた温もりが蘇る。 どうして気付かなかった。絶対、どこかおかしかったはずなのに。 ちら、と昨夜届いた受信メールの内容が頭をよぎる。 『今日はちょっと疲れちゃったんで、大人しく寝ますねー。また明日!明日叶センパイ、風邪ひかないようにちゃんと風呂入るっスよ?』 珍しくミッション後に部屋へ訪ねて来ないなと不思議に思っていた時に届いたメール。 どう考えても、変だったのに。 ―――苛々する。 自分自身の不甲斐なさに歯軋りしそうになるのを堪えて、明日叶は午後の時間を耐えた。 「あの……センパイ、なんか、怒って……る?」 少し正気を取り戻したのか、掠れた声はそのままだが、言葉に意思が感じられる。 ぎゅっとタオルを絞ると、明日叶は再び太陽に向き直った。 泣きそうな顔で、おずおずと見上げてくる茶色の目。 熱っぽく潤んだ瞳に、今はちゃんと自分が映っている。 違う。 こんなことが言いたいんじゃないんだ。 でも。 「怒ってるよ」 押し殺したような声に、太陽が眉を下げる。 言葉とは裏腹に、そっとタオルを額に乗せてやると、手の甲で頬を撫でた。 まだ、熱い。 けれどその優しい仕草に、やや強張っていた太陽の身体がふと弛緩したように見える。 「なんで、言ってくれなかった」 今度は静かな声で呟いた。思わず零れた、本音。 「え?」 「具合、悪かったなら、どうして言ってくれなかったんだ」 分かってる。 こいつはこういう奴だと。 何よりも明日叶のことを優先して、大事に大事に、真綿でくるむようにして。 いつだって、一番に気遣ってくれる。 ―――例え、自分の方が傷ついていたとしても。 こいつは、そういう奴なんだ。 だからこそ、俺がちゃんと見ておかなければならなかったのに。 愛してくれるが故に、自分のことを後回しにばかりしてしまう、この優しい恋人のことを。 拭っても拭っても浮かんでくる汗の雫が恐ろしくて、取り憑かれたようにタオルで擦った。 それでも目を覚まさないその姿に、たかが風邪だと頭の片隅では冷静に考えている自分がいるのに、恐怖に震える指先を律することが出来なかった。 それほど、この男の弱りきったところなど、見たことがなかったのだ。 のろのろと横向きになると、気だるげな様子で太陽が腕を伸ばしてきた。 火照った指が、そろりと明日叶の目尻を拭う。 「泣かないで、センパイ………」 言われて初めて、また涙が落ちていたことに気付く。 けれど、そう言う太陽の方が泣きそうだ。声が揺れている。 「本当に、大丈夫だったんだよ、センパイ」 ぱたり、と力無く腕を落として、太陽が呟いた。 「確かに、センパイのこと、心配させたくないって思ったのも本当だったけど」 掠れた声で続ける。 「でも、小さい頃からこうだったから」 へへっと照れたように太陽が笑う。 「だからさ、慣れてたんだ。オフクロはもう…いなかったし、親父は仕事で留守のことが多かった。兄貴には、もうこれ以上心配も掛けたくなくてさ」 食って寝て起きりゃー、次の日には元気になってる。 だから。 そこまで言って、太陽が苦しそうに咳き込んだ。 黙って聞いていた明日叶は、慌てて背中をさすってやる。 治まると、太陽は苦しげな表情の中にふっと笑みを作って言った。 「なのに、なんでだろ」 明日叶の手を掴んで、両手できゅっと握ると、太陽はゆっくりと目を閉じた。 すり、と温度の高い頬をその手に寄せるようにして。 「こんなの、慣れてるはず、なのに。でもオレ、今、センパイが居てくれて」 すげぇ安心してる 囁くようにぽつりとそう漏らすと、ふっと手の力が緩んだ。 苦しそうだった呼吸が、すぅすぅと穏やかなものに変わっている。 「そんなことに、慣れるなよ……馬鹿」 切なさに、胸を鷲掴みにされたように息が詰まった。 俺がいてやる。 お前がどんなに強がって見せたって。 絶対に、俺だけはそばにいてやるから。 だから。 俺には、俺にだけは―――甘えてくれないか。 「……おやすみ、太陽」 いつもよりずっとあどけない顔で眠る恋人に、祈るような気持ちでキスを落とした。 ひとりぼっちで背中を丸めていただろう小さな太陽にも、ちゃんと届くように。 |
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◆あとがき◆ 太陽×明日叶スキーお友達のわたべさんからのリクでしたー♪風邪ネタ。 えーと、こんなんなりましたけどいかがでしょうか……(汗) 公式でやってた風邪ネタ、どうしても太陽でやってみたかったんですよねぇvv 強がるぞー、絶対太陽は、素直に弱ってるとこ見せないぞーとニヨニヨしながら書きました。 実は辛いくせに、見栄張って強がる男が好きだ!(何宣言) 明日叶ちんも大概素直に感情出せないタイプだけど、一見能天気に見える太陽も、 こういうとこは本音出すの苦手なんじゃないかなーと勝手に思ってます。 素敵絵のお返しとは到底言えませんが、良ければ捧げさせてくださいわたべさん!(奉納) 2010.4.4 up |
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